「嘘をついてはいけないよ、とくにあなたはね」



物陰によばれ、そんな風に誰かからひっそりと内緒話みたいに耳打ちされた事がないのかしら?「そのきれいな唇からもれた言葉なら、なんでも良くなってしまうからね」とー


そよそよと気まぐれに泳ぐ白い毛先が、ちらっと頬をかすめるのを感じながら、それとも、そのおせっかいな清く正しいであろう誰かも、あなたはまるで彼らが自分に誑かされるのを、本当はずっと欲していたかのように、その色素の薄い瞳のまばたき一つで恥じ入らせてしまったのかしら?いつもの飄々とした風情で、壁にもたれ、少し視線を落として、心が読めない内省的な顔だけをむけて...........どうせかぶさる細い睫毛の奥の瞳が何色なのかを夢想しているくせに、と。

そんな事を考えながら、わたしはわたしの彼である仁王雅治に寄り添い、わたしのちいさな可愛らしい嫉妬が、怒りに変わらないように適当に撫で、適当にあやして、適当に遊んでやっている。


仁王の携帯からもれたちょっとよく知らない子の声が頭の中をひとめぐり。



自分のヒールの裏が歓楽街のコンクリートの地面に傷をつける音と、仁王のほとんど足音のしない履き慣れた靴の無音がかわるがわる交差して、わたし達は空腹というどうしようもない俗っぽい現象の名のもとに休戦協定を結んで、ならんでネオン輝く色めいた通りを歩んでいる。


「ラーメンでよか?」

「ん」


仁王はこの猥雑な明かりの下、とても生き生きとして見える、人工的な光が似合う人。ティッシュ配りのお姉さんが寒そうな白い足を出して、一歩前に出る。機械的な人形のようなその視線が、前方を歩く人々から、その間をぬぐって現れた仁王の上で一瞬だけ、生き返る。仁王はポケットから大儀そうに手を出して、それでもけっして乱暴には受け取らずに、ひらぺったいビニール包みをポケットに押し込んだ。まだ右後頭部にひかえめに残る視線のあとを軽く頭をふって夜の空気中に泳がす。ああ、この人は知っているー


「お前さん、ラーメン食った後よく使うじゃろ?」

「....ん」


当たり前のように言ってのける横顔、ちょっと鼻奥がつーんとするような痛い感覚を感じて、わたしは仁王の顔を見れずに下をむく、わたしに何をしたのかも気づかずに(気づいているのかもしれないけれど)仁王は「さむっ」と言って冷たい風に首をすくめた。高い鼻梁がほんのり赤くそまっている............触れて、たしかめて、その冷たさを知りたい、でも、ダメだ。自分が充分注目に値する事にたいして、自惚れたりはしない人だけれど、それでもなだらかな顎のラインをちらり、と目でなぞって、彼が不器量に生まれる勇気なんてなかったんじゃないか、とやり返すように思う。


仁王の携帯からもれたちょっとよく知らない子の声が頭の中を、もうひとめぐり。


わたし達が通う赤い暖簾が軒先にかけられている馴染みの店。
「デートには向かんがな、味は美味い」そういって連れて来てもらったのは、何回目の時だったっけ?まだ少し緊張して、カウンターにすわるわたしに「柳生を思い出すのう」と柳生君を初めて連れて来たときに、丁寧に食べすぎてお店の主人に笑われたという逸話をきかせてくれた。「あいつ薬味を取るたんびに「仁王くん、前を失礼致しますね」とか言うんじゃ。3回目でもう麺の味がどうでもよくなったわ」とちゃかして、でも内心はそんな柳生君の律儀さを、むしろ誇っているようで、その時だけはいつも鋭い目じりが、ほんのりと笑みに柔らかくなるのを見たわたしは「この人好きだなぁ..........」と思ったんだ。


本当に、心からそう思ったんだよ。


赤い暖簾がゆれる軒下の木製の扉に手をかけて、仁王は「入るぜよ、」と言って、力を入れた。その瞬間、脳内にふわりと向こう側の湯けむりあふれる店内の暖かさが蘇って来て、わたしは自分がいつもとても嬉しくここを訪れていた事を思い出す、隣に仁王、低い声でわたしの好きな味をつげて、ぱきっとお箸をふたつわって、食べきれないものはふたりで半分こしてー


仁王の携帯からもれたちょっとよく知らない子の声が


「...............っ」

堪えていた思いが止められずに決壊して、わたしはその場の冷たいコンクリートの路地に体を抱えてうずくまる。思いがけないような、ちいさな嗚咽が自分の口から途切れ途切れにもれて、それがただ熱くて、痛い。

背後で仁王が沈黙するのがわかった。数秒後、「すんません」と店内の主人につげて、開けかけた扉を静かにしめる音が聞こえた。仁王の気配をそばに感じ、腕をとられて、ゆっくりと人目につかない路地裏にほどこされる。通り過ぎる人々の視線がわたしの嗚咽によって、好奇の色に染まっているのがわかる。錆び付いた看板や電信柱の線が、地図のようにいくえも頭上にみえる細い路地裏で、腕をわたしの体に回してとんっ、とあごを泣き止まずにゆれる頭につけ、そのまま仁王は黙った。

騒がしさから逃れた最後のような場所で、わたしの声を詰まらせしゃくり上げるような泣き声と、仁王の低い呼吸の音だけが交互に聞こえる。どこかで空き缶が塀から落ちる音が。

どれぐらいそうしていただろうか。
すぅと息を細めてちいさく仁王はわたしを抱きしめてささやいた。


は.........俺が何を言っても信用せんじゃろ?」


意外な言葉に、顔を上げればすぐ近くにつらそうに眉根をよせた仁王の顔。
こんな顔、見たことない。


「だって雅治は」

「オオカミ少年はな」


わたしを遮って、仁王が淡々とつぶやく。


「誰にも信じられんで、誰にも助けられんで、最後は狼に食べられてしもうたんじゃ」


「一人っきりで死んでしもうたんじゃよ」


ゆっくりと、わたしの首筋に顔を埋めて寄りかかるように仁王は弱く、力なく言った。

ああ、この人は。


仁王の携帯からもれたちょっとよく知らない子



わたしは何を聞いたのだろうか、誰の声だったのだろうか。
仁王がわたしに言えない誰か?わたしが知らない仁王の友人?
それとも、わたしがまだ会ったことのない姉だったのだろうか?


、好いとうよ...............本当にそう思うとるんよ」


先ほどわたしが心に痛いぐらい思った事をくぐもった声で仁王が返してくれた。首筋に埋められた鼻先は寒さで冷たい。わたしがさっき手を伸ばして、暖めてあげなくてはいけなかった冷たさだ。


「ごめんね」


まわした腕で力一杯仁王を抱きしめた。細いけれど、やっぱり男の子な体はわたしの両腕では足りなくて、その差を埋めるように、仁王もわたしの腰にまわした腕に強く力をいれる。

ごめんね、仁王。
あなたはずっと、そのまま、誰よりも格好良く誰よりも完璧にみんなを騙してよ。
そんで、もう駄目になったら、最後の最後にはわたしが走って、あなたを助けにいくよ。

そのきれいな唇から出た嘘も、真実も、すべてはわたしがきめる。


仁王の冷たかった鼻先がわたしの体温でゆるゆると暖められてゆく。暮れかかる夜の路地裏で頭上の電飾がぽつ、ぽつ、とひとつ点いてまたぽつ、ぽつ、とひとつ消えてゆく。背中にあたるトタン板の硬い冷たい感触、それから守るようにわたしを抱く仁王の暖かい腕、そのうえの熱い頬。


ちょっと鳴いてみようか?
この愛しい人が好きな、あのほおっておけない毛むくじゃらの生き物のように。



誰もこないひっそりとした路地裏で、2匹の猫のようにわたし達はただ絡まりあって唇をよせあった。


















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